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紫煙亭主人、愛を語る 第七夜:自己愛とセルフコンパッション ~まず自分を「慈しむ」ということ~


さて、これまで六夜にわたり「愛」という、いささか大それたテーマについて、言葉の変遷から東洋と西洋の思想、そして現代社会におけるその病理まで、好き勝手に語り散らかしてきたわけだが、今夜はいよいよ、最も身近でありながら、時に最も見失いがちな「愛」の対象、すなわち**「自分自身」**について語ってみたいと思う。

ナルシシズムと自己肯定感の狭間で

「自己愛」と聞くと、どうも眉をひそめる向きも少なくない。「ナルシシズム」という言葉が示すように、とかく自己中心的で、他者への配慮を欠く傲慢な態度と結びつけられがちだからだろう。だが、健全な自己愛と病的なナルシシズムの間には、明確な境界線がある。

健全な自己愛とは、己の長所も短所もひっくるめて受け入れ、自己の存在価値を認めることに他ならない。これは決して、他者を見下したり、優越感を抱いたりすることではない。むしろ、自分自身を尊重できるからこそ、他者の存在も尊重できる、という至極まっとうな循環を生み出すものだ。

現代社会においてしばしば耳にする「自己肯定感」という言葉も、この健全な自己愛と密接に結びついている。自分の価値を自分で認められない人間が、どうして他者の価値を認められるだろうか。常に他者の評価に依存し、承認欲求に振り回されるような生き方は、まさに「愛」の本質であるはずの自由を奪ってしまう。

自分を「慈しむ」ということ ~セルフコンパッションのすすめ~

ここで注目したいのが、「セルフコンパッション」、つまり**「自分への思いやり」**という概念だ。これは、単なる自己肯定感を超え、まるで親しい友人に接するように、自分自身に優しく、温かい眼差しを向けることを意味する。失敗した時、落ち込んだ時、ついつい自分を責めがちなのが我々の性だが、そんな時こそ、自分を「君」と呼んで対話してみてほしい。

例えば、

「ああ、またやってしまったな、君は。でも、大丈夫だよ。次があるさ。」

「なんだか今日は心がざわついているようだね、君。無理しなくていいんだよ。」

と、もう一人の自分が語りかけるように、自分自身に寄り添うのだ。この「セルフ対話」は、驚くほど心の重荷を軽くし、内なる平穏を取り戻す助けとなる。他者に向けられる「慈悲」の心が、まず自分自身に向けられることで、人は真に癒され、そして満たされる。

他者を愛するための第一歩

考えてみれば、他者を心から愛するためには、まず自分自身が満たされている必要があるのは当然のことではないだろうか。コップに水が満たされていなければ、他者に分けることなどできないように、自分の心が枯渇していては、真の「愛」を他者に与えることは難しい。

これまでにも述べてきたように、「愛」は与えることである。しかし、その「与える」という行為も、自分自身が「満たされている」という土台があってこそ、初めて健全な形で実現されるのだ。自分を慈しみ、自分を満たすこと。それは決して利己的な行為ではない。むしろ、他者を愛し、世界と豊かに関わるための、最も基本的な、そして最も重要な第一歩なのだ。


今回の「自己愛とセルフコンパッション」について、皆さんはどのように感じただろうか。自分自身に優しく向き合うことは、時に難しいと感じるかもしれない。だが、その一歩が、きっとあなたの、そして周囲の「愛」の形を変えていくはずだ。