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第六夜:現代社会の「愛」の病理 ~SNSと消費される感情~


紫煙亭主人の愛を語る、第六夜にようこそ。

さて、これまで「愛」という言葉が辿ってきた歴史や、西洋・東洋における多面的な解釈について、あれこれと思いを巡らせてきました。

しかし、現代社会に目を向けてみると、私たちが「愛」と呼ぶものの多くが、どこか薄っぺらく、そして消費の対象となっているように感じられてなりません。今回は、この現代の「愛」が抱える病理について、SNSというツールを通して深く考えてみましょう。

「いいね!」の檻と承認欲求の無限ループ


現代社会において、人々の「つながり」を可視化する最も強力なツールの一つがSNSでしょう。「いいね!」やフォロワーの数、コメントの量……これらが、あたかも自身の価値を測る指標であるかのように機能しています。まるで私たちの自尊心が、デジタルな数値に換算されていくようです。

  • 「いいね!」文化と承認欲求: 投稿に対する「いいね!」は、手軽に得られる承認の証です。この手軽さが、私たちの承認欲求を際限なく肥大化させ、常に他者の評価を気にする状態に陥らせています。私たちが本当に感じたことや考えたことよりも、他者に「どう見られるか」「共感を得られるか」が優先され、表現の自由が「いいね!」の多寡に左右される。共感や感動も、表面的な「いいね!」の数に還元されてしまうこの状況は、果たして健全な心のあり方と言えるでしょうか? 自分の内なる声よりも、外からの評価に囚われることで、私たちは自分自身の感情すらも客観視し、演出してしまうようになっているのです。
  • 薄い繋がりがもたらす孤独の深化: SNS上での「つながり」は、広範である一方で、往々にして希薄です。顔も知らない、声も知らない、互いの人生の背景も知らない者同士が、瞬時に共感を表明し、あっという間にその熱は冷めていく。こうした「つながり」は、一見すると孤独を癒してくれるように見えますが、いざ本当に助けが必要な時、深い理解を必要とする時に、どれほどの力になってくれるでしょうか? むしろ、数百、数千の薄い繋がりが多ければ多いほど、真に心を許せる相手がいないという深い孤独が際立つ皮肉な結果を招いているようにも思えるのです。情報過多の中で、私たちは真実の感情を見失い、表面的な交流に終始してしまう。その結果、心の奥底で感じる孤立感は、SNSが普及する以前よりも増しているのではないでしょうか。

「愛」の多様性に見る複雑な表裏:効率と感情のせめぎ合い


「愛」の形は時代とともに変化するもの。現代においては、これまでの常識では測りきれない、新しい形の「愛」が生まれています。しかし、そこにもまた、現代社会の歪みが顔を覗かせます。

  • 「婚活」に見る効率化された愛の現実: 「婚活」という言葉が示すように、結婚という人生の一大イベントが、あたかも就職活動のように効率化され、成果が求められる時代になりました。条件リストを片手に相手を選び、デートは「面接」さながら。もちろん、それは現実的な側面もあり、時間や労力を節約したいという合理的な判断もあるでしょう。しかし、そこで育まれる「愛」は、果たして利害や条件の上に成り立つものなのでしょうか? 論理や合理性では測りきれない、不確かな感情の機微が入り込む余地は、どれほど残されているのでしょうか。効率化を追求するあまり、相手の内面や時間をかけて育むべき信頼関係が置き去りにされ、まるで商品を吟味するかのような感覚でパートナーを選ぶ。この風潮は、「愛」の非合理性や偶発性といった本質を失わせているように感じられます。
  • 「推し活」に見る純粋な感情と消費の渦: 一方で、「推し活」という現象は、特定の人物やキャラクターに対し、見返りを求めない純粋な「愛」を注ぐ新しい形として注目を集めています。経済的な支援はもちろん、時間や労力を惜しまず捧げる姿は、かつての偶像崇拝にも似た熱量を感じさせます。しかし、同時に、その「愛」がコンテンツとして消費され、時に企業戦略の一環として利用されている側面も否定できません。「推し」は常に新しい刺激を求められ、ファンはより深い「愛」の表明を求められる。これは、果たして純粋な感情の交換なのでしょうか、それとも消費社会における新たな「愛」のビジネスモデルなのでしょうか。熱狂的な「愛」がビジネスとして組織化され、感情が経済活動の燃料となる時、私たちはその「愛」の純粋性をどこまで保てるのか、問われていると言えるでしょう。

成果主義と孤独化の進行:深まる心の溝


現代社会は、あらゆる面で効率化と成果が求められます。それは「愛」の領域にまで及び、私たちの心のあり方にも大きな影響を与えています。

  • 「愛」の質を蝕む成果主義の影: 成果主義は、時に「愛」の質を劣化させます。「この関係性は自分にとって利益があるか」「この行動は相手にどう評価されるか」といった損得勘定が先行し、無償の優しさや見返りを求めない支え合いといった、「愛」の本質的な部分が置き去りにされていく。まるで「愛」もまた、投資に対するリターンを求めるかのような感覚で捉えられてしまうのです。結果として、互いの間に壁が生まれ、深い信頼関係を築くことが難しくなります。短期的なメリットばかりを追求することで、長期的で本質的な「愛」の構築が疎かになっているのではないでしょうか。
  • 「つながり」の中での孤独の深まり: 「つながり」は増えたはずなのに、なぜか孤独を感じる人が増えている。これは、SNSが生み出す薄い繋がりが、真の心の交流を阻害しているからではないでしょうか。表面的な交流ばかりが先行し、自分の弱みや悩みをさらけ出せる相手がいない。そのような状況は、私たちをより深い孤独へと追い込んでいくように思えてなりません。私たちは、常に誰かと繋がっている感覚を享受しながらも、本質的な部分では誰とも深く繋がれていないという、新たな形の孤独に直面しているのです。この「つながっているのに孤独」というパラドックスこそ、現代社会の「愛」が抱える最も深刻な病理かもしれません。

私たちは、便利になった「つながり」を手に入れました。しかし、それは私たちにどのような「愛」をもたらし、そして何を奪ったのでしょうか。

「いいね!」の数に一喜一憂し、効率的な関係性を求める中で、私たちは本当に大切な、手間暇をかけて育むべき「愛」の種を見落としていないでしょうか。

この問いに対する答えは、それぞれの心の中にあるはずです。あなたは、現代の「愛」に何を感じ、何を考えますか?

次回も、この「愛」を巡る思索を深めていきたいと思います。