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愛知県清洲市・名古屋駅から2駅の「朝鮮集落」を歩く – その歴史と現在

地元ネタ

こんにちは!今回は、愛知県清洲市にある、かつて「朝鮮集落」と呼ばれた地域を散策した様子をブログ記事にまとめました。この記事は、TOMO’S TRAVEL / トモズトラベル様の「【愛知県】名古屋駅から2駅の朝鮮集落を散策。衝撃的な光景が…」(URL:https://youtu.be/SUW0QCIOa_4?si=r4M0d5mDg498bG63)の内容を参考に作成しています。なぜこの場所に集落が形成されたのか、その歴史的背景を探りながら歩いてみました。

名古屋から驚きの近さ!清洲市新川町

愛知県の北西部に位置する清洲市は、名古屋市西区と中村区に隣接しています。かつて織田信長の拠点であった清洲城があった場所としても知られています。今回散策したのは、清洲市の南部、かつて新川と呼ばれていた地域です。目の前には、その地名の由来となった人工河川「新川」が流れています。

さらに、すぐ近くには一級河川「庄内川」も流れており、この川を越えれば名古屋市中村区です。中村区といえば名古屋の中心部であり、名古屋駅があります。そして、このエリアの最寄り駅である名鉄の塚口駅には、名古屋駅からの急行線に乗ればわずか2駅、わずか7分で到着できるという、都心から極めて近い場所なのです。

そんな都心から程近い場所に、地元民や在日コリアンによる「朝鮮集落」があったと聞き、今回はその歴史と現在を紐解くべく散策を開始しました。

清洲市の外国人人口と地域の特異性

清洲市の人口は約7万人(2020年時点)とそれほど多くありません。そのうち外国人人口は約1200人です。1970年には約450人、2001年には約600人だった外国人人口は、年々増加傾向にあるそうです。

興味深いのは、東海エリアに多いとされる日系ブラジル人の流入がこのエリアにはほとんどなく、ほぼ全員が韓国・朝鮮人だということです。そのため、このエリアは戦前から「朝鮮集落」と言われているそうです。

散策を開始すると、道はかなり狭く、自動車の通り抜けが難しい場所もありました。比較的新しい住宅が立ち並ぶエリアもあれば、かなり古い民家や長屋が立ち並ぶ雰囲気の場所もあります。

集落形成の歴史的背景

この集落が形成された背景には、いくつかの要因が考えられます。

清洲越しとその後の産業変化

名古屋城築城前、尾張の中心地は清洲城とその城下町でした。この地区の須ヶ口駅周辺は、当時は遊郭として栄えていたそうです。しかし、1612年の名古屋城築城に伴い、清洲から名古屋への都市移転、いわゆる「清洲越し」が行われました。これにより名古屋という都市が誕生した一方で、新川町は人の流れが途絶え、衰退の一途をたどることになります。

新川町の産業構造は、元々8割が農家であり、工場はほとんどありませんでした。しかし、1925年に現 法和工業株式会社(当時の社名はトヨタ式織機株式会社)が設立されたことが、後の新川町の産業基盤を築いたと言われています。法和工業は現在も清洲市に本社を置く工作機械メーカーです。

トヨタ式織機(法和工業)の稼働と朝鮮人の流入

トヨタ式織機(現 法和工業)の工場稼働が開始した1930年頃から、旧町の人口は減少から増加に転じ、わずか5年で人口は7000人から1万人を超え、その後も増加を続けたそうです。当時の地元紙は、トヨタ式織機が新川工場を設立したことで朝鮮人が流入してきたと報じていたそうです。1936年には、労働者の朝鮮人が町会議員に当選した記録も残っており、やはり法和工業の稼働により一定数の朝鮮人が新川町に居住するようになったと考えられます。

劣悪な居住環境と集落の成立パターン

当時の朝鮮人の主な仕事は、戦前からあった精子工場で働くことでした。この精子工場があった場所は、動画の冒頭で紹介された愛花工業名古屋工場があった場所だそうです。その精子工場は1944年に愛花工業に買収されています。

その精子工場では、多くの在日コリアン・朝鮮人が労働者として雇われていました。彼らが工場の前、堤防のすぐ下にある川沿いを居住地として選択したことが、この集落形成の要因の一つになったと考えられています。

さらに、この地区が川が交差する三角地帯になっており、水害が頻繁に起こり、当時は下水が通っておらず汚物が道に垂れ流しだったという、 居住環境としては最悪な場所だったことも、彼らの流入を促進する条件の一つだった と考えられます。

朝鮮集落の成立過程には2つのパターンがあると言われています。

  • 日本人地主が貸家や長屋を建てたが、環境が劣悪なため日本人が住みつかず、朝鮮人が賃借するパターン。
  • 河川敷や敷地に不法でバラック小屋を建て、それが集落として形成されるパターン。

このような光景は日本各地で見受けられました。そこに住みついた朝鮮人が家族や親族を呼び寄せたりして、コミュニティが大きくなっていったそうです。

終戦後の変化と「ウエス加工業」

こうして形成されたコミュニティは、1945年の終戦によりさらに磐石化されることになります。日本の敗戦により朝鮮半島が植民地から解放され、日本人労働者の復員や引き上げが進む一方で、朝鮮人の多くは解雇されました。職業を失った朝鮮人は、闇物資の仕入れやクズ鉄拾いなどが主な仕事となりました。

その流れで、この地区の多くの朝鮮人が始めた仕事がウエス加工でした。ウエスとは、機械類の油や不純物を拭き取るための布のことです。新川町におけるウエス加工の歴史は明治初期に始まり、元々はボロ市として町内の日本人が始め、その後業者が増加していったそうです。

終戦後のピーク時には、新川町内に100軒を数えるほどのウエス加工業者が存在したそうです。戦前から一部の朝鮮人は近所の日本人が経営するウエス加工業者で働いていましたが、戦後になるとほぼ一斉に、自宅にミシンを置いてウエス加工を始めたそうです。

まとまった資金もいらず、ミシン1台あればできるこの仕事は、 当時日本人が嫌がる3K(きつい、汚い、危険)的な仕事 であり、ニッチ産業から事業展開を狙う戦略として多くの朝鮮人が参入したと考えられています。

しかし、 ウエス加工の仕事は想像以上に過酷でした。洗ったか分からない下着や古着をウエスに加工していくため、「匂いが気持ち悪くてご飯も食べられない、夜も寝られなかった」という証言もあるそうです。悪臭と戦いながらのきつい仕事でしたが、敗戦後の当時は日本人でさえ仕事がない状況であり、朝鮮人にとっては生きていくためにその仕事を選ぶしかなかった時代背景があったそうです。

彼らは日本人が嫌がる仕事を生きるために全うし、気づいたら日本に定住しており、気づけばこの一体は朝鮮集落となっていた、とのことです。

当時の治安と現在の様子

言葉は悪いですが、 当時の彼らは日本人から見れば「チンピラ」そのものだった そうです。先に述べた闇の横領や、他所への強盗、朝鮮人同士の喧嘩や揉め事は日常茶飯事だったそうです。加えて、このような異質な雰囲気もあったことから、日本人は近づけなかった集落と言われていたそうです。

当時の日本の警察は朝鮮人に対して手が出せず、地元日本人が暴れる彼らを抑えていたそうです。当時この地区で最も治安が悪化したエリアでは、在日コリアンが60世帯に対し、日本人はわずか5世帯だったそうです。在日コリアン・朝鮮人が圧倒的多数を占める不利な状況で、 数少ない日本人が彼らを教育し、戦後混乱したこの地を皆で協力して平穏を取り戻した と言われています。

現在、この一体は空き家や廃墟が目立ちます。かつての住民への聞き取り調査によると、「子供にはウエス加工業を継がせたくない」という大人の声や、「いち早くここを抜け出したい」という若者の声が多かったそうです。現在の閑散とした状況は、そこから読み取れると言います。

現代社会ではダイバーシティやジェンダーフリーが提唱され、民族や国籍という壁は無くなりつつあります。そういった時代の流れもあり、この地域から在日コリアンの方々も出ていったのかもしれない、と筆者(動画投稿者)は個人的に感じたそうです。

名古屋から高アクセスなエリアということもあり、 いずれは何かのきっかけでこの一体が再開発される可能性もあるかもしれません。そうなると、この歴史的な光景はもう見られなくなる可能性もあります。今回の散策を通じて、しっかりと目に焼き付けておきたいと感じました。

まとめ

今回の清洲市新川町の散策を通じて、都心近郊に存在した在日コリアン集落の深い歴史を知ることができました。動画で解説されていたように、豊田式織機(法和工業)の設立による労働者の流入、水害常襲地帯という劣悪な居住環境、そして終戦後に多くの人々が生計を立てるために必死に取り組んだウエス加工業など、様々な要因が絡み合ってこの集落が形成された過程が明らかになりました。当時の治安の悪化と、それを地元住民が協力して乗り越えようとした歴史も心に留めておきたい点です。

現在、空き家が目立つ閑散とした風景の裏側には、 そこで暮らした人々の厳しい生活と、時代に翻弄されながらも生き抜こうとした歴史が刻まれている ことを強く感じました。


参考にした動画: 【愛知県清洲市】名古屋駅から2駅!かつての “朝鮮集落” を歩く(https://www.youtube.com/watch?v=SUW0QCIOa_4)


最後までお読みいただきありがとうございました!