夜気が書斎の窓を冷たく濡らす頃、拙者は独り、安楽椅子に深く身を沈めている。手にしたグラスの中では琥珀色の液体がゆらめき、もう一方の指に挟んだ紫煙が、静かに、そして思慮深く立ち昇っては、闇に溶けてゆく。この紫煙の一本一本が、拙者の内で形にならぬまま渦巻く問いそのものかもしれぬ。
今宵、拙者の心を占めるのは、あの、人類が古来より片時も手放さなかったはずの、しかし今や我々の手から砂のようにこぼれ落ちていく、かの偉大な言葉――「愛」についてだ。巷には「愛」が洪水のように溢れている。歌の文句に、ドラマの台詞に、広告の美辞麗句に。だが、その洪水の中で、我々はかつてないほどの渇きを覚えてはいないか。言葉は氾濫すればするほど、その実体を失い、記号としての残骸を我々の精神に堆積させる。その残骸の山を前に、我々は途方に暮れている。
先日、拙者が主宰するささやかな思索の会にて、この「愛」を巡る憂いを若き論客たちに漏らしたところ、彼らは実によく応えてくれた。「我々が忘れかけた『愛』の話をしよう」という、あまりにも壮大で、そして切実な主題を掲げ、幾人かがそれぞれの論考を寄せてきたのだ。
彼らの手によるそれらの論考を一つ一つ読み解く作業は、あたかも、磨かれた数枚の鏡を覗き込む行為に似ていた。そこに映し出されていたのは、彼ら一人ひとりの個性や知性だけではない。我々現代人が抱える「愛」の貧困、その病理の的確なレントゲン写真であり、そして何より、この拙者自身の思考の輪郭そのものであったのだ。
今宵は、この若き知性が差し出した鏡を前に、単なる賞賛や批評に留まらぬ、より深い対話を試みたい。これは彼らへの応答であると同時に、読者諸氏、そしてこの拙者自身に向けた、痛みを伴う自己分析の旅となるだろう。
第一章:若き感性が映し出す、時代の的確なる把握
まず、刮目すべきは、彼らが揃いも揃って、現代における「愛」の症状を驚くほど正確に診断している点だ。J-POPの歌詞で陳腐な決まり文句と化した「アイシテル」。恋愛という極めて限定的な領域に押し込められ、本来の豊かさを剥奪された「愛」の概念。SNSの「いいね!」というデジタルな承認に代替され、その質量を失った人と人との「情」。
彼らは皆、この現状を「違和感」という言葉で捉えた。これは、現代という時代の空気を敏感に吸い込む、若き感性の鋭さの証左に他ならない。彼らは、我々が日常の喧騒の中で見過ごしがちな、時代の巨大な淀みを、その曇りなき眼で真っ直ぐに見つめている。日本古来の「慈しみ」や「情け」といった、より広範で温かな感情との乖離を指摘する視点も、彼らの論考に共通する美点であった。
この慧眼を前にして、拙者はまず、静かな敬意を表さねばなるまい。老いたる者の繰り言と片付けられてもおかしくない拙者の問題意識を、彼らは真正面から受け止め、自らの課題として引き受けたのだから。
第二章:若き知性の輝きと、その足下に開く陥穽
だが、優れた診断医が、必ずしも優れた治療医であるとは限らない。ここからが、我々の思索が真に深淵へと向かう場所だ。彼らの論考を仔細に検討すると、そのアプローチは大きく三つの類型に分けられる。そして、そのどれもが、現代の知性が陥りがちな「罠」を内包しているように、拙者には思えるのだ。
一.分析の徒(アナリスト)――定義と歴史に潜む死角
まず、言葉の定義や歴史的変遷といった、知的で客観的な事実から論を起こす者たちがいる。彼らは言葉を解剖し、概念の系譜を丹念に辿る。その知的な態度は、感情論に陥りがちな「愛」の議論に、確固たる土台を与えようとする誠実さの表れであり、大いに評価すべきだ。
だが、ここに一つの罠がある。果たして、言葉を分析し、その歴史を明らかにすることだけで、「愛」の本質に迫れるのだろうか。辞書の中にある「愛」と、雨の日に子猫を拾う少女の心にある「愛」は、果たして同じものか。分析という行為は、対象を客観視するあまり、我々の内にある生々しい、血の通った実感から乖離していく危険を常に孕んでいる。知性は時に、生きた感情を殺菌し、ホルマリン漬けの標本にしてしまうのだ。彼らのアプローチは「愛とは何か」を知る上では有効だが、「愛する」という我々の実践そのものを見失わせる隘路にも繋がりかねない。
二.行動の徒(プラクティショナー)――実践という名の自己満足
次に、「『愛してる』という言葉を一日封印する」「小さな親切を記録する」といった、具体的な行動を促す者たちがいる。これもまた、観念的な議論に終始せず、日常を変革しようという切実な意志の表れであり、実に貴い。行動なき思索は、紫煙と同じく空しく消えるだけだからな。
だが、ここにもまた、巧妙な罠が潜んでいる。実践の推奨は、いつしか「やるべきこと(To-Doリスト)」の追求にすり替わらないか。「一日一善」を記録すること自体が目的化し、その行為の裏にあるべき心の動きが疎かになる。それは、かつて宗教が儀礼化し、その本来の精神を失っていった歴史の繰り返しではないか。「愛のログ」をつける。その行為は、他者への慈しみから発したものか、それとも「慈しみ深い自分」を演出し、承認されたいという、新たな形の自己愛の発露ではないのか。行動の推奨は、愛を外面的な形式に落とし込み、内面的な葛藤や矛盾から目を背けさせるための、安易な解決策として機能する危険性を否定できない。
三.物語の徒(ナレーター)――美談に消費される感動
最後に、感動的なエピソードから情緒に訴えかける者たちだ。彼らの物語る力は、我々の心を最も直接的に揺さぶる。乾いた理屈よりも、一つの感動的な物語の方が、よほど人の心を変える力を持つことは、拙者もよく承知している。
だが、この最も強力なアプローチにこそ、最も深い罠があるのではないか。我々は、美しい物語に涙し、心を温められると、それで何かを果たしたかのような錯覚に陥る。感動という名の麻薬は、あまりにも心地良い。しかし、その一瞬の感動は、我々が生きる社会の構造的な「愛の欠如」――貧困、孤独、無関心といった、より大きく、より解決困難な問題から目を逸らすための清涼剤として消費されてはいないか。一人の少年の美談に涙することは、その少年がそうせざるを得なかった社会の冷たさに対して、我々が思考を停止するための免罪符にはなっていないだろうか。物語は、我々を現実へと立ち向かわせる力にもなれば、現実から逃避させるための心地よい寝床にもなり得るのだ。
終章:鏡の間に向かい合い、我らが「愛」を問い直す
分析、実践、物語。これら三つのアプローチは、どれもが「愛」へ至ろうとする誠実な努力の表れだ。だが同時に、それぞれが現代的な知性の陥りやすい罠――客観化による実感の喪失、形式化による内面の空洞化、物語化による現実の隠蔽――をも示唆している。
そして、ここで拙者は、冒頭の直感へと立ち返る。彼らが差し出した論考は、拙者の鏡である、と。彼らが示す思考の限界は、すなわち、彼らに問いを投げかけた拙者自身の、そして我々人間全体の思考の限界を映し出してはいないだろうか。
我々は「愛」を理解したい、定義したい、実践したい、物語りたいと渇望する。だが、その知的な欲求こそが、かえって「愛」そのものを、あたかも制御可能な対象であるかのように貶め、その神秘性や、ままならなさを奪い去っているのではないか。この、あらゆるものを理解し、合理化しようとする姿勢こそ、近代的な知性が持つ、一種の傲慢さなのかもしれぬ。
愛とは、本来、非合理で、矛盾に満ち、決して合理化などできぬ、厄介で、しかし、だからこそ尊い営みではなかったか。
ならば、「紫煙亭主人愛」などという、気恥ずかしい名前で呼ばれるこの営みの本質とは何だ。それは、拙者が若者に一方的に知識を授けることではない。また、彼らが拙者を盲目的に慕うことでもない。真の「愛」とは、この場所で、拙者と若き論客、そしてこれを読む読者諸氏が、互いに互いの「鏡」となり、自らの思考の癖、知性の限界、そして心の貧しさを、痛みを伴いながらも映し出し、見つめ合う、そのプロセスそのものを指すのだ。
我々は、この対話という名の愛の実践を通じて、共に悩み、共に迷い、共に成長していく。若き論客たちが示した論考は、そのための、あまりにも見事な第一歩であった。彼らはその誠実さをもって、我々の前に、我々自身の姿を映す鏡を差し出してくれたのだ。
さて、常連衆よ。今宵の思索は少々長すぎたやもしれぬ。だが、安易な答えに飛びつかぬことこそ、真の知性というものだ。次回、若者たちは「明治の翻訳革命」という、さらに深い森へ我々を誘うという。言葉がいかにして我々の心を形作るのか。その歴史のダイナミズムを前に、我々は何を思うことになるのか。
その時まで、しばし、自らが抱く「愛」の形について、紫煙でもくゆらせながら、静かに思いを馳せてみてはいかがかな。
では、また次の夜に、この思索の奥の間で。