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紫煙亭主人、つながりを語る 第二夜:「いいね!」の蜃気楼。SNSは我々の心を本当に満たしているか?


前回の夜会では、「つながり過多」でありながら、なぜ我々がこれほど「孤独」を感じるのか、その逆説について語り合った。スマートフォンの光に照らされた人々の姿は、まさに現代社会の縮図であり、量的な「つながり」が真の心の豊かさをもたらすわけではないことを示唆したつもりだ。

さて、今夜は、その「量的なつながり」の象徴とも言える、SNSについて深く掘り下げていこう。


「映え」の向こう側にある現実

Instagramを開けば、誰もが輝かしい生活を送っているように見える。高級レストランの美食、海外旅行の絶景、ブランド品に身を包んだ友人たち。それらは皆、完璧に加工され、「映え」を意識して切り取られた一瞬の輝きだ。しかし、その「映え」の裏側には、どれほどの現実が隠されているのだろうか。

例えば、SNSに投稿するために、冷めてしまった料理を何枚も撮影したり、実際は仲が良くないのに無理をして笑顔で写ったり。本来、体験そのものが目的であるはずなのに、「見られるため」に、まるで舞台役者のように人生を演じている者が少なくない。それは、真の喜びや感動とはかけ離れた、どこか空虚な行為ではないだろうか。

私もSNSを覗くことはあるが、正直なところ、そこに映し出されているのは、その人の人生のごく一部、それも最も都合の良い部分だけだと割り切って見ている。しかし、特に若い世代は、そうした「完璧な世界」ばかりを見せつけられることで、自分自身の現実と比較し、劣等感や焦燥感を抱いてしまうこともあるようだ。それは、まるで砂漠の中に現れる蜃気楼のようなものだ。美しく、魅力的だが、決して手に入れることのできない幻。我々は、この蜃気楼を追いかけることに、どれほどの時間と心を費やしているのだろうか。


デジタルの刃:炎上と誹謗中傷

SNSの持つもう一つの顔、それは「デジタルの刃」だ。匿名性というベールに隠され、時には倫理観を麻痺させた言葉が、瞬く間に世界を駆け巡る。些細な発言が炎上し、時には個人の人生を破壊しかねないほどの誹謗中傷へと発展する。

画面の向こうには、生身の人間がいる。血の通った、感情を持った人間が。しかし、文字だけのやり取りでは、その人間の存在を感じ取る想像力が著しく欠如してしまうことがある。相手の表情が見えない、声が聞こえないという状況は、共感の欠如を生み、結果として無責任な言葉を投げつけることに繋がるのだ。

「誰かの役に立ちたい」「情報を共有したい」といったSNS本来の良心的な動機も、一歩間違えれば、人を傷つける凶器と化す。この「つながり」は、果たして本当に我々を豊かにしていると言えるのだろうか。


「既読スルー」に揺れる心と、SNSの人間関係

SNSがもたらした人間関係の変化で、私が特に気になっているのは「既読スルー」に代表される、独特の機微だ。メッセージを送ったのに既読にならない、あるいは既読になったのに返信がない。たったそれだけのことで、不安になったり、相手の気持ちを詮索したり、時には自尊心が傷ついたりする。

かつて、手紙や電話しかなかった時代には、返信が遅れることは当たり前だった。しかし、リアルタイムでの「つながり」が当たり前になった今、その些細な「遅延」が、まるで人間関係の危機であるかのように感じられてしまう。

SNS上の「友達」は、本当に「友達」なのだろうか? 簡単に繋がれ、簡単に切れてしまう関係性。それは、まるで薄氷の上に築かれた城のようだ。いつ崩れ落ちるか分からない不安定さが、常に心のどこかに存在する。


SNSを「使う」者と「使われる」者

では、我々はSNSとどう向き合うべきなのだろうか。私は、決してSNSの全てを否定するわけではない。遠く離れた家族や友人と手軽に連絡を取ったり、共通の趣味を持つ人々と交流したり、災害時に情報を共有したりと、その利便性と可能性は計り知れない。

重要なのは、我々がSNSを「使う」のであって、SNSに「使われない」ことだ。

「いいね!」の数に一喜一憂し、常に誰かの目を意識して自己を演出する。通知が来るたびにスマートフォンを手に取り、画面から目を離せない。それは、SNSという名の砂漠の中で、乾きを満たそうと必死にもがく姿に他ならない。しかし、そこにあるのは、実体のない蜃気楼だ。

本当に満たされるべきは、フォロワーの数ではなく、あなた自身の心だ。他者の承認ではなく、あなた自身の納得だ。


我々は、何をSNSに求めているのか?

今一度、立ち止まって考えてみてほしい。あなたは、なぜSNSを使っているのだろうか? そこで得られる「つながり」は、本当にあなたの心を潤しているのだろうか? 画面の向こう側にいる生身の人間を、あなたはどれほど想像しているだろうか?

SNSは便利なツールだが、それはあくまでツールに過ぎない。その向こう側に、あなた自身のリアルな人生があることを忘れてはならない。そして、真の「つながり」は、画面を挟んだデジタルな世界ではなく、五感で感じられる生身の交流の中にこそ存在することを、私は改めて強調したい。