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第四夜:家族という最小の他人。血縁と絆の狭間で。

やあ、また来てくれたか。紫煙亭の夜は、君のような客人がいてこそ更けていく。
さあ、いつもの席でグラスでも傾けながら、今宵も少しばかり厄介な話に耳を傾けてくれ。

前の夜は、我々が失くしてしまった「囲炉裏」、すなわち地域共同体について語った。面倒で、窮屈で、しかし確かにセーフティネットとして機能していた、あの場所の話だ。そして予告した通り、今夜はその視点をぐっと内側へ、我々にとって最も根源的で、最も身近な共同体……「家族」へと移そう。

「家族」。この言葉を聞いて、君は何を思うだろうか。温かい食卓、無償の愛、帰るべき場所。メディアはこぞってその理想像を映し出す。だが、現実はどうだ?その温かいはずの場所が、時に灼熱の地獄にも、氷の監獄にもなり得ることを、我々はもう知っているはずだ。

■聖域の崩壊。「毒親」と「親子ガチャ」が映すもの

スマートフォンの画面を滑らせれば、「毒親」や「親子ガチャ」といった言葉が、まるで流行りのスラングのように飛び交っている。最初は眉をひそめた者も多かっただろう。親を「毒」と断じ、自らの境遇を運任せの「ガチャ」に喩えるとは何事か、と。

だが、これらの言葉は、単なる若者の不満や甘えから生まれたものではない。それは、これまで「聖域」とされてきた家族という共同体が、必ずしも安寧の地ではないという、紛れもない現実を突きつける刃だ。選ぶことのできない親、逃れることのできない血縁。その抗いようのない関係性の中で、心をすり減らしている魂の叫びなのだ。

我々は皆、自らの意志とは無関係に、特定の親と子の関係性の中に生まれ落ちる。それは、人間が背負う最も根源的で、そして時に最も残酷な「つながり」の始まりと言えるのかもしれない。

■親鸞の刃。「血は水よりも濃い」という呪縛を断つ

「血は水よりも濃い」。
このことわざは、長らく家族の絆の絶対性を支える金科玉条とされてきた。だが、本当にそうだろうか。この言葉は、我々を「家族なのだから分かり合えるはず」「家族なのだから許すべきだ」という、見えない呪縛で縛り付けてはこなかったか。

ここで、鎌倉時代の僧、親鸞の言葉を引こう。彼は主著『歎異抄』の中でこう言い放った。
「父母の孝養のためとて、一返にても念仏申したること、いまだ候はず」
(親孝行のために念仏を称えたことなど、一度もない)

これは親不孝を勧める言葉では断じてない。親への孝行といった人間的な計らい(自力)すらも超えた、阿弥陀仏の絶対的な救済(他力)への徹底した帰依を示す言葉だ。この親鸞の鋭い刃は、我々が当たり前だと思っている「親孝行」や「家族愛」といった道徳観を根底から揺さぶる。

家族という関係もまた、人間が作り出した一つの制度であり、幻想に過ぎないのではないか。それを絶対視し、無条件に寄りかかろうとするとき、そこに歪みと苦しみが生まれる。血のつながりという抗えぬ事実を前に、我々は一度、立ち止まって考える必要がある。

■最も近き、他人への敬意

皮肉なことに、最も近い関係であるはずの家族こそ、最も相手を傷つけやすい。なぜか。そこに「甘え」が生まれるからだ。「家族なのだから、これくらい言っても許されるだろう」「言わなくても分かってくれるはずだ」という、一方的な期待。

だが、考えてみてほしい。親も子も、兄弟も、それぞれが一人の独立した人間だ。異なる価値観を持ち、異なる人生を歩む、いわば「最小単位の他人」なのだ。親しき仲にこそ礼儀あり、とはよく言ったものだが、我々が最も礼儀を忘れ、敬意を払わなくなる相手こそが、家族ではないだろうか。

相手の価値観を尊重し、その人生に過剰に干渉しない。感謝の言葉を忘れず、謝罪の言葉を惜しまない。そんな当たり前の人間関係の作法を、最も近い他者である家族に対してこそ、我々は実践する必要がある。その適度な距離感こそが、脆い血縁を強固な「」へと昇華させるのかもしれない。

■新しい家族のかたち。血縁から「意志」へ

目を社会に転じれば、もはや「家族」は血縁や法律婚という枠組みだけでは語れなくなっている。

性別に関わらず愛する人と共に生きることを誓うパートナーシップ。気の合う仲間と一つ屋根の下で暮らすシェアハウス。同じ志を持つ者たちが集う共同体。そこに血のつながりはない。しかし、互いを尊重し、助け合い、喜びも悲しみも分かち合うその姿は、我々が「家族」という言葉に託してきた理想の形そのものではないだろうか。

もはや、「家族」を定義するのは、生まれ持った血縁という「事実」だけではない。共に生きようとする「意志」によって、家族は創られていくのだ。

君に問おう。君が本当に「帰りたい」と思う場所はどこだ?君が心から安らげる人々は誰だ?
もし、君が今いる家族との関係に苦しんでいるのなら、まずは目の前にいる親や子を、一度「他人」として見つめ直してみてはどうだろう。当たり前だと思っていた存在に感謝し、無意識に押し付けていた期待を手放す。それが、血縁という呪縛を解き、真の「絆」を結び直す第一歩になるやもしれない。
そして、覚えておいてほしい。血のつながりだけが全てではない。君が自らの意志で選び、築き上げた居場所こそが、君にとっての本当の「家族」なのだと。

最後に

さて、紫煙が尽きる前に、次の夜の話を少しだけ。
SNS、地域、家族と、我々は様々な「つながり」の輪郭をなぞってきた。だが、これらの関係性は、結局のところ我々が社会の中で何らかの「役割」を演じることで成り立っている。

第五夜は、その「役割」という仮面と、その下にある本当の自分との間で生まれる「つながり」について、深く掘り下げてみることにしよう。

また次の夜に、この紫煙亭で会えるのを楽しみにしている。