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第六夜:「役に立つ」から始まる関係の危うさ。利害を超えた友誼を求めて。

煌びやかな照明、行き交う人々、そして差し出される無数の名刺。諸君も一度は、異業種交流会なるものに足を運んだ経験があるやもしれぬ。そこでは誰もが笑顔の仮面をつけ、「何か面白いご一緒できませんか」という言葉と共に、相手の肩書きと会社名を値踏みする。まるで品評会だ。この出会いが己のビジネスに「役に立つ」か否か。その一点で関係の深さが測られる世界の、なんと寒々しいことか。

人間関係を蝕む「効率」という名の病

いつから我々は、人間関係にまで「コストパフォーマンス」や「タイムパフォーマンス」を持ち込むようになったのだろう。「この人と過ごす時間は、私に何をもたらしてくれるのか」。そんな損得勘定が、無意識のうちに思考の根底にこびりついている。友人との食事ですら、「有益な情報交換」という名目で正当化し、目的のない会話、いわゆる「無駄話」を悪とする風潮さえある。

だが、断言しよう。その効率主義こそが、我々の魂を最も貧しくする疫病なのだ。「何をしてくれるか」でつながる関係は、その役割や利用価値が失われた瞬間に、蜘蛛の子を散らすように消え去る。それは、砂上の楼閣に過ぎない。肩書きや財産、若さといった、いずれは失われるものを土台にした関係が、永続するはずもないのだ。

古典に学ぶ、利害を超えた「徳の友愛」

思い出してみてほしい。子供の頃の友との交わりを。我々は、相手が将来金持ちになるかとか、勉強を教えてくれるかなどと考えていただろうか。ただ、一緒にいて楽しいから、話していると心が躍るから。理由はそれだけで十分だったはずだ。そこに介在したのは、利害ではなく、魂の純粋な惹き合いだった。

では、我々大人は、もうあの頃のような関係を築くことはできないのだろうか。いや、そんなことはない。古代ギリシャの哲人アリストテレスは、友愛を三つに分類した。「有用さ(利益)ゆえの友愛」「快楽ゆえの友愛」、そして「徳(善)ゆえの友愛」だ。現代の「人脈」が第一のものに偏っているのは、言うまでもない。我々が目指すべきは、第三の「徳の友愛」だ。それは、相手が持つ利益や、共にいて楽しいという一時の感情ではなく、相手の人柄そのもの、その人の在り方そのものに敬意を払い、友の善を願う関係である。

中国の古典に「管鮑(かんぽう)の交わり」という故事がある。貧しく地位もなかった頃の管仲の数々の過ちや卑劣とも取れる行動を、友である鮑叔は決して見捨てなかった。「彼が貧しいからだ」「彼には時節が巡ってきていないだけだ」と、その本質を誰よりも深く理解し、信じ続けた。そして、後に宰相となった管仲をして「我を生みしは父母、我を知るは鮑叔なり」と言わしめたのだ。これこそ、利害や損得を遥かに超えた友誼の理想形ではなかろうか。鮑叔は、管仲が「役に立つ」から信じたのではない。管仲という人間の「徳」を、その魂の輝きを、見抜いていたのだ。

さあ、無駄な一杯のコーヒーを淹れようか

もちろん、社会で生きていく上で、利害を度外視することは難しいだろう。だが、全てをその物差しで測ることはない。無駄話にこそ、その人の本質が垣間見える。目的のない時間にこそ、心は解放され、魂は触れ合う。

さあ、諸君。一度、己の名刺入れを眺めてみてほしい。そこに並ぶ名前の主の顔を、肩書きを外して思い浮かべることができるだろうか。「何をしてくれるか」ではなく、「その人が、そこにいること」自体を喜べる相手が、果たして何人いるだろうか。

もし、その問いに胸を張って答えられないのなら、まずは一杯のコーヒーから始めてみてはどうだろう。仕事の話は一切抜きで、ただ、どうでもいい話に笑い、互いの存在そのものを味わう時間を、意図的に作ってみるのだ。効率や生産性といった呪縛から自らを解き放ち、ただ人と人として向き合う。その無駄とも思える時間の中にこそ、人生を豊かにする真の「つながり」の種子が隠されているのだから。

さて、今宵の煙も尽きてきたようだ。利害を超えた友誼を築いた先で、我々は何を分かち合い、響き合わせていくのか。次回は、その関係をさらに深める「共感」という名の橋について、語ることにしよう。