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第三夜:我々が失くした囲炉裏。共同体の記憶とノスタルジーの罠。


やあ、よく来てくれた。紫煙亭へようこそ。

今宵もまた、グラスを片手に少しばかり込み入った話に付き合ってもらおうか。

前の夜は、蜃気楼のようなSNSのつながりの向こう側にある、リアルな交流の重要性について語った。だが、そもそも我々がリアルな世界で帰るべき場所、腰を下ろして心を通わせる場所は、一体どこにあるのだろうか。

今夜の紫煙の先に見えるのは、かつてこの国の至る所にあった「囲炉裏」の風景だ。パチパチと火の粉が舞い、老人から子供までが自然と集い、他愛もない話から村の寄り合いまで、あらゆる事柄がそこで交わされていた。それは単なる暖房器具ではない。共同体の心臓そのものだった。

■死語になった「向こう三軒両隣」

向こう三軒両隣」。君はこの言葉に、どんな情景を思い浮かべるだろうか。醤油の貸し借り、子供を叱ってくれる近所のおじさん、おかずのお裾分け。…どうにも、現代劇のセットというよりは、時代劇のそれに近いと感じるのではないか。

何を隠そう、この言葉はもはや死語に近い。都市部のアパートやマンションでは、隣に誰が住んでいるのか、顔すら知らないことも珍しくない。回覧板は電子化され、地域の知らせはスマートフォンの画面に無機質に表示されるだけ。我々は、近代化と都市化の過程で、効率と匿名性を手に入れた代わりに、隣人との物理的、そして心理的な距離を大きく広げてしまったのだ。

かつての共同体は、言わば「運命共同体」だった。同じ土地に生まれ、同じ水を飲み、同じ祭りに胸を躍らせる。そこから逃れる自由は少なかったかもしれないが、同時に「一人で生きていかなくてはならない」という孤独からも解放されていた。

■プライバシーという名の聖域と、無関心という名の砂漠

「プライバシーが重視される時代ですから」。

この言葉は、今や人と人との間に壁を築くための便利な免罪符になってはいないだろうか。もちろん、個人の領域が尊重されるべきは論を俟たない。誰しも、土足で心に踏み込まれたい者などいるはずもない。

しかし、そのプライバシーという聖域を守るための壁が、いつしか他者への「無関心」という名の、見えない要塞になってはいないか。子育てに悩む隣家の母親の溜息に気づかぬふりをし、孤独に苛まれる老人の存在を「自己責任」と切り捨てる。その無関心は、本当に我々が望んだ自由の代償なのだろうか。

かつての「おせっかい」には、確かに余計な干渉という窮屈さがあっただろう。だが、その裏側には「何かあれば助け合おう」という暗黙の了解、つまりは地域社会というセーフティネットが機能していた証でもあったのだ。我々は今、そのネットが破れ、高所から落ちても誰も受け止めてくれない社会を生きているのかもしれない。

■祭りのあとさき。共同体が見ていた夢

地域の祭りを思い出してみよう。準備のために何度も集まり、世代を超えて役割を分担し、時には意見をぶつけ合いながら一つのものを作り上げる。あの喧騒と熱気。あれこそが、共同体が生きている証だった。

祭りは単なる娯楽ではない。それは、地域の歴史と文化を次世代に継承する教育の場であり、互いの存在を確認し、連帯感を醸成する「社会的な装置」だったのだ。面倒な準備や後片付けも含めて、そのプロセス全体が、人々を「個」から「公」へとつなぎとめるための、見事な仕組みだったと言える。

効率を求め、そうした「面倒」なものを切り捨ててきた我々は、一体何を得て、何を失ったのだろうか。

■ノスタルジーという甘美な罠

さて、ここまで語ると「昔は良かった」という懐古主義(ノスタルジー)に聞こえるかもしれない。だが、断じてそうではない。それは危険で甘美な罠だ。

忘れてはならない。かつての共同体は、同調圧力や「村八分」といった、個を圧殺する恐ろしい側面も持っていた。プライバシーは存在せず、異質なものは排除される。そんな息苦しさから逃れるために、我々の先人は都市を目指したのだ。過去を無条件に美化することは、歴史に対する冒涜に他ならない。

私が問いたいのは、過去への回帰ではない。我々が学ぶべきは、囲炉裏を囲んでいた人々の関係性だ。時には窮屈で、しかし確かに存在した「相互扶助」の精神であり、「暗黙の了解」という名の信頼関係だ。その本質を、現代の我々の暮らしの中に、どうすれば再構築できるのか。それこそが、我々に課せられた問いなのだ。

君に一つ、問いを投げかけよう。君は、自分の住む町にどんな人がいて、どんな歴史があるかを知っているか?

まずは、近所の人に挨拶をすることから始めてみてはどうだろう。地域の小さなイベントに、少しだけ顔を出してみるのもいい。それは、失われた共同体を完全に取り戻す魔法ではないかもしれない。だが、君と社会との間に横たわる、冷たくて厚い無関心の壁に、小さな風穴を開ける最初の一撃にはなるはずだ。

さて、今宵の話はここまでにしておこう。

地域という共同体の次に見つめるべきは、我々にとって最も根源的で、そして最も複雑な共同体…「家族」だ。