PR

我々が忘れかけた「愛」の話をしよう

随想
1. ラブソングに消費される言葉

「愛してる」――。

街角のカフェで、テレビドラマのクライマックスで、そしてイヤホンから絶え間なく流れるラブソングのサビで、この言葉は今日も大量に生産され、そして消費されていく。

まるで安売りされる商品のように、その価値をすり減らしているのではないか。そんな危惧を覚えるのは、亭主だけではあるまい。いつしか我々の社会では、「愛」という言葉が、男女間の燃えるような情熱や、結婚という制度を維持するための甘い約束事を指す、便利な記号になってしまったようだ。

もちろん、恋愛感情の尊さを否定するつもりは毛頭ない。それは人間の営みにおける、最も美しく、時に残酷な輝きの一つだろう。しかし、その一側面だけが「愛」のすべてであるかのように語られる風潮には、どうにも拭いがたい違和感がつきまとうのだ。

2. その違和感の正体 ~「love」と「愛」の狭間~

では、このむず痒いような違和感の正体は何なのか。

それはおそらく、我々が使っている「愛」という言葉が、西洋から輸入された「love」の概念に、いつしか乗っ取られてしまったことに起因する。

本来、日本人が育んできた「愛」の心は、もっと広く、穏やかなものだったはずだ。それは特定の個人に向けられる激しい感情だけでなく、見返りを求めない「慈しみ」、弱き者へ寄り添う「情け」、そして万物への「思いやり」を含む、いわば「博愛」に近い、大きく静かな感情の波だった。

歴史を遡れば、仏教が説く「慈悲」や、儒教が重んじた「仁」の精神が、この国の人間関係の基盤には流れていた。それらは、現代の恋愛至上主義的な「愛」とは、明らかに異なる色合いと深みを持っている。

3. 古代の叡智に訊ねる「愛」の多面性

少し視野を世界に転じてみよう。古今東西の賢人たちは、この厄介で、しかし人間にとって不可欠な感情を、いかに多角的に捉えようとしてきたか。

例えば古代ギリシャの哲学者たちは、巧みに愛を切り分けてみせた。肉体的な欲望や美への憧れを「エロス」。共に高め合う友人との絆を「フィリア」。そして、神が人間に注ぐような、無条件かつ普遍の愛を「アガペー」と呼んだのだ。彼らは皆、「愛」というものが、決して一つの形に収まらない、複雑で豊かな多面体であることを深く理解していた。

この叡智に比べれば、現代の我々の「愛」の捉え方は、あまりに単純化され過ぎてはいないだろうか。

4. これから始まる「愛」を探る旅

この一服の煙を燻らせるようなささやかな場所で、亭主は一つの試みを始めたい。

それは、我々が忘れかけている「愛」の本来の姿を探る、思索の旅だ。

西洋哲学の光を借りながら、日本の歴史という地層を掘り起こしていく。明治の知識人たちが西洋の「love」に初めて触れた時、なぜそれを「愛」と訳し、そこに何を託そうとしたのか。そして、その選択が我々の精神に何をもたらし、何を失わせたのか。

この探求は、単なる言葉の歴史を辿る懐古趣味ではない。人間関係が希薄になりがちなこの現代社会で、我々がもう一度、他者と、そして自分自身と深く温かく繋がるための、古くて新しい道筋を見つけ出すための試みでもある。

さあ、あなたも一服しながら、ご一緒に。

「愛」をめぐる、少しばかり長く、しかし味わい深い旅に出るとしようじゃないか。